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私(緒続真人)は平成17年度の外務省ODA民間モニターに一般公募・審査により選ばれ、
2005年7月、パプアニューギニア、訪問団(15名)団長として派遣されました。
このホームページは、当地を訪問した時の経験や感想を広報することを目的として作成したものです。
ODA民間モニタ‐事業とは、一般民間人を発展途上国に派遣し、当地におけるODAによる支援状況の実態を視察、その結果を国民の多くに知ってもらい、ODAへの理解を広めていく活動でした。
このためのホームページでしたが、時を経て、私自身の環境も大きく変化したことにより、次のリンクを残すに留め、事実上、閉鎖することにします。
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(1) ODA民間モニターの経験
所属会社・西日本プラント工業株式会社 社内報「NPCニュース」(2005年9月号)掲載記事でその時の活動概要を記載しています。 |
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(2) ODA民間モニターとしてパプアニューギニアへ
九州電気協会発行「電気と九州」の2005年11月号及び12月号の2回にわたり連載されたものです。
私自身がただ一人の日本人・人質となり遭遇した中東でのハイジャック事件(1988年4月)の話等も織り込み、ODAへの理解を深めてもらう内容です。
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尚、今後は、ホームページのタイトルである「ODA民間モニターとしてパプアニューギニアへ」はそのままとし次の内容を新たに掲載し、継続発展させていくことにします。 |
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1.アジア見聞録
2007年1月より発電プラントの海外(アジア地区)でのサービス業務に従事しました。
この間、「今週の一枚」と題し出張先で、その週に撮影した写真を解説付きで紹介してきました。
出張先は主にタイ、フィリピン、香港、マカオ、中国(広東省・珠海)の各地であり、「アジア見聞録」の体裁としています。
ここではその中の2011年1月分以降を掲載しております。
2016年8月以降からは日本で撮影したものも掲載しており、今後も逐次アップデートしていきたいと思います。
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2. クウェート航空ハイジャック事件
1988年4月5日未明、バンコクからクウェートに向うクウェート航空機が中東オマーン上空でイスラム教過激派グループにハイジャックされました。
この渦中に人質となった日本人が唯一人だけいました。
その日本人が私だったのです。
人質として機内に拘束され、生命の危険に脅かされる状況に日本では多くの人々がテレビの前で固唾を飲んで見守りました。
幸い、私自身は危害を加えられることもなく、事件発生から約45時間後に無事解放され事なきを得ました。
解放されたのは、テヘランの東850qに位置するマシャハドというアフガニスタンとの国境沿いの都市でした。
そして、そこから成田に戻ることなく、当初の予定どおり発電所建設のため目的地のクウェートに飛んだのでした。
かくして、この事件を私自身の言葉でマスコミに話すこともなく、現在に至っています。
ここでは、残っていたそのときの関連資料やメモをもとに、この事件を総括しておきたいと思います。
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(1)ハイジャック事件遭遇時までの私のとりまく環境
この時期、三菱重工長崎造船所の原動機部門は、数多くの輸出プラント工事をてがけていました。
その中の一つに、クウェート政府より350MW級発電プラントへ8基のボイラを据付・試運転込みで建設するという大型案件を受注し、その現地工事の最盛期にありました。
火力プラント建設部に所属する私は、このプロジェクトの現地工事に携わることになり、前年(1987年)の11月にはクウェート現地に入り、現地所長補佐として働いていました
しかしながら、正式な就労ビザの取得が完了していなかったため、日本での必要な手続きを済ませるため、翌年の3月初旬に一時帰国していました。
これを終え、クウェート現地へ再赴任の途中、本事件に遭遇したのでありました。
任地は中東の僻地であるため、必然的に単身赴任となり、留守宅には妻と二人の娘(小2、小4)を残しての長期現地出張となりました。
ところで、何故、日本では馴染みが薄いこのクウェート航空機便を利用したのでしょうか。
それは、クウェート王国の就労ビザを取得するには、入国にあたり、クウェート航空機便を利用することが、条件となっていたからであります。
こうして、1988年4月4日、成田を午後に出発の日航機でバンコクまで飛び、その深夜(日付は4月5日)、クウェート行きの当フライト、クウェート航空422便に乗り継いだのでありました。
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(2)ハイジャック事件を伝えるTV各局の報道
日本人が巻き込まれたハイジャック事件の発生が日本に伝わるや、各メディアは一斉に動き出し、事件の成り行きを刻々と伝えました。
次の動画は、乗っ取り事件発生から、イラン・マシャハド空港で無事解放されるまでの状況、そして、その解放を喜ぶ家族及び関係者の様子がテレビ各局の報道の形で記録されています。
ハイジャック事件を伝えるTV各局の報道(動画)
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ここではハイジャック犯が蜂起し解放されるまで機内で一体どういう状況に置かれ、何が起こっていたのかについて記載しています。
これまで、解放地イラン・マシャハドで、日本から掛かってきたマスコミの電話取材に応じ、これがテレビや新聞で断片的に報道されたことはあります。
こうして時系列的に整理し全体を語るのは、これが初めてとなります。
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(4)本ハイジャック事件の顛末
乗っ取り事件発生から私を含む非クウェート乗客解放までの約45時間を、それぞれテレビ各局報道動画と私の作成した手記の形にて上述のとおり、振り返りました。
このハイジャック事件全体の顛末に関しては、事件発生後、間もなくして、発刊された「写真週刊誌「フライデー( 4月29日号)」に記載されていますので、若干の補足を加え掲載します。
写真週刊誌「フライデー」誌面(1988年4月29日号) (PDFファイル:289KB)
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(5)所感(2018年3月31日記)
●30年も前の事を、「何をいまさら」の感でありましょう。
しかしながら、生命の危機が迫るような経験は、この時代、そう出来るものではありません。
だからこそ、この時のことを語れば、誰でもが、興味を持って話に聞き入ってくれます。
日本人以外の相手でも同じで、多くの外国の人に対しても、このネタで親しくなってきました。
でも、こういう断片的な興味本位での話で終わっていいのか、と自責の念がずっとありました。
いつかは、自分の人生のなかの決して忘れられない出来事を総括し、残しておかなければならない、と思っておりました。
でも、何の締切りもないだけに、伸び伸びになり、今日に至ってしまいました。
そして、気がついてみれば、この(2018年の)4月が、あれからちょうど30年となる時でした。
区切りの年に、これを終えておかなければ、この作業は永遠に手つかずのままになるとの思いもあり、今回の作業となりました。
●今回の話のなかで、パスポートをチェック中、私が日本人と分ったとき、親しみの情を見せた青年の話に触れています。
この青年は、どうして日本人に対し親しみの念を抱いていたのか、と考えてみました。
日本は戦後のどん底から這い上がり、奇跡的に目覚ましい発展を遂げ、後進国の見本となりました。
そして平和憲法を堅持しながら平和外交を基軸に後進国の貧困対策と向かい合い、これらを全面的に支援してきました。中東の赤貧の国々に対しても然りです。このことが、この青年のもつ日本に対する憧れや尊敬の念とは、決して無関係ではないと思うのです。
テロは貧困だけが原因とはいうつもりもないし、その様相も30年前とは様変わりしてきています。
しかしながら、今、世界にまん延する政治不安や貧困、迫害等の現実を見据え、日本は世界から一目をおかれるような独自の外交を展開することが重要ではないでしょうか。
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緒続真人(おつづきまさと) |
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コメント感想は、緒続真人の
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